2019の振り返り-あきらめの1年-
明けましておめでとう御座います。
2020年が、皆様にとって素晴らしい一年になりますように。
(菊池温泉の足湯に浸かりながら書いてます。)
(「イノシシに襲わるっばい!」と親父に聞いたので友達とフリースタイルしながら登る。韻を踏むのに必死、所謂「韻に踏まれた」状態。)
(見えたご来光)
(新年早々大吉で最高)
忘れないうちに去年の振り返りを。
2019年、最終的には、とても良い一年だったなーと思う。
健康だったし、鎌倉に引っ越して、サウナにも沢山入れたし、ブラジリアン柔術、サーフィンも始めたし、支援員にもなれたし、何より社内外でも素敵な友人が沢山出来た(彼女は出来ない)。
いろんな人に迷惑を掛けながらも自分の仕事の自由度は増して、友人の会社を手伝って。
今までの人生、辛い辛い辛い、でも最後は楽しー!!的な、逆転ホームラン的な、快不快の割合が0.5:9.5くらいの人生だったけど、今年は4:6くらいの割合だったんじゃないだろうか。
この人良い人だなーとか、星や海って綺麗だなーとか、山気持ち良いなーとか、この虫かっこいいなーとか、毒魚に刺されると痛いとか、やっぱ吉野家美味いなとか、そんな些細なことに感謝することが出来た1年でした。
そんなこんなで年末に32歳になって、今まで自分の年齢と感覚が合うことが無かったのだけど、こう、やっとしっくりきた感じがする。
思い返すと、2019年の春-夏まではもやもやが大きかった。もう明らかにテンションが低かったので会社の方達には改めてゴメンと伝えたい。ゴメン!
2018年に思いっ切りマネジメントとして失敗したので、端的に言うと負荷が低く、自由度の高いところにスライドさせて頂いた。
しかし、負荷が低くなったらなったで、暇があると暇があるで色々考えてしまう。
(本当に会社の皆ごめん)
リタリコに入る直接のきっかけだった甥っ子もそこそこ見通しがついたし、兄とも仲直り?が出来た。あれ?俺次何したかったんだっけ?とか考えてしまった。
結果、自分史上最高のマンネリに襲われた。
「国内も海外もメーカーもITも福祉も大企業もベンチャーも社長も会社設立も新規事業もマネジャーも営業もマーケも物流もやってきた。人並みくらいには出来た。色んな人にも会った。なんとなくわかった。もう何をやっても刺激がねえ!」ってモードに入ってしまった。
今振り返るとわかるが、20代の頃は大体2年おきに仕事の内容や住む国を変えてきて、毎年毎年結構ハード目なチャレンジの連続だった僕は、仕事の中身やミッションを楽しむというよりも、「シゲキ。。。シゲキ。。」と新たなシゲキを求めて彷徨うシゲキアディクト(依存症)、際限の無いシゲキ亡者になっていたのだ。
「このままじゃやばい!」と人生初の夏休みを取り、ひたすら釣りとサーフィンと読書、たまにデートをしていたが全く心の隙間が埋まらない。
やべえ、環境を変えないと。と焦燥感に駆られるが特にやりたいことも見つからない。というループに陥ってしまった。
やべえやべえって思ってたら、11月後半になっていつの間にかその気持ちはスーッと消えて、自分は出来る事を淡々としようと、気持ちをシフトする事が出来た。
きっかけは色々あったんだけど、
試行錯誤している中で、良い意味で、自分や世の中、人をあきらめる事が出来たんじゃないかなと思う。(諦めるは仏教用語で明らめると書く。)
若い頃は野心が有ったり、強くなりたかったり、お金持ちになりたかったり、有名になりたかったり、モテたかったりした。
憧れの人も居たし、こうなりたい!が有って、こうあらねばならない、みたいな強迫観念を、自分にも周りにも持っていた。
それがここ最近、いつの間にか消失してしまった。
若輩者ながら、振れ幅の大きな、多様性のある出会いを沢山経験させて頂いた。
社会の階層や、国籍、思想や信条、ハンディ、背負っているもの。
様々なヒトに会い、様々なモノを見て、様々なコトを経た上で、自分も含めた人間の不完全さ、性、世の中の不条理さが、この歳になって、やっと腹落ちした感覚を得た。
とても今更だけど、やっとやっと、あんまり比較もしなくなって、過度な期待を他人にも自分にもしなくなった気がする。
結果、心が落ち着いて、幸せです。
長々書きましたが、こんな気持ちで新年を迎える事が出来るとは思っていなかったです。
関わって頂いている皆さま、本当に有難うございました。
出来ない事、無力感を感じる事も多いけれど、2020年も自分が出来る事をちゃんとやって行こうと思います。
-赦すこと、赦されること-アニとボクと、時々、オヤジ
2018January-A letter of thanks
皆様(English below)
突然ですが私、23歳でタンザニアに行く前、26歳でバングラデシュに行く前には家族に遺書を書いていました。
今思うと滑稽というかビビり過ぎやろお前ってなるんですが、アフリカに行って死んだらもう会えないもんな-!と思って当時にしては珍しく真剣に書いていました。
去年私30歳になりまして。同世代の方は同感してもらえると思うのですが、この歳になると親世代は勿論、同世代でも亡くなる人がぽろぽろ出てくるもので、【死】というものが特別なものでは無いと感じるようになりました。
熊本地震やバングラテロの時は【死】に対して猛烈にネガティブイメージがあったのですが、最近は「ああ、普通に皆死んでくんだな」とある程度受容できるようになったというか。自分が死ぬ時にこんな冷静に居られるかわかんないですが。
で、特に持病も無い僕が死ぬのはきっと事故の可能性が高くて、お世話になった皆さんに挨拶が出来る時間がある可能性はほぼ無いので、毎年新年に遺書(というか感謝状)を書いていこうと思い立ちました。僕がもし死んだら、ここを読んで酒のつまみにでもして下さい。
希死念慮とかはゼロなんで、あくまで突然死んだ場合です。Just in case
家族へ。
父さん、母さん、今まで育てて頂き有難うございました。二人に自由に育ててもらったお陰で、後悔もなく、とても楽しくて、有意義な人生でした。父さんのリベラルさや厳格さ、母さんの暖かさで今の僕が作られていると思います。本当に有難う。遺骨は実家の柿の木の下にでも埋めて下さい。毎年美味しい干し柿になって二人に恩返ししたいです。あんまり天国とか信じていないけれど、またどこかで会えたら良いね。運動を忘れずに、長生きして下さい。貯金あんまり無いけど、もし余ってたら甥と姪の学費に使って下さい。
姉ちゃん、一人で道を切り拓いてきた姉ちゃんのお陰で、広い世界を知ることが出来ました。生まれた時から可愛がってくれてありがとう。ゆみとまゆを宜しく。どうか幸せに生きて下さい。
兄ちゃん、最後までめっちゃ仲良くはなれなかったけど、兄ちゃんの感じていた辛さが今になって少し理解わかるようになりました。色々謝りたい事が多い。最近相談してくれるようになって有り難いです。身の回りに信頼出来る良い人を置いて、笑顔で生きて下さい。困ったら誰かに相談するんだよ。
姪と甥へ
ゆみ、君が生まれた時にこんこんは初めて誰かの為に死ねるな、と思いました。ゆみは気を使えるからストレスも溜まるかもしれないけど、自分の生きたい人生を歩んで下さい。あと、まゆをいじめずに、仲良くね。
まゆ、君が頭の中にある大きなアイディアを言葉に出来ずに悪戦苦闘しているのを見るのが、こんこん大好きでした。まゆの感性は凄く豊かなので、その感性を伸ばせる環境に自分を置いてください。ゆみと仲良くね。
陸、昔はすごくわんぱくだったけど、日々成長して行く君をみるのが楽しみです。君のお陰で素敵な仕事を見つけられました、ありがとう。人生で色々な困難があるかもしれないけど、君の個性を潰さず、認めてくれる人と一緒にいて下さい。
輝、こんなオジサンにすごい懐いてくれて有難う。輝はとても才能豊かだと思う。色々な世界を知って、後悔の無い人生、もしくは後悔も楽しめる人生を歩んでください。
英語の勉強はやめるなよ。ママにも優しくね。
さら、あんまり一緒にいてあげられなかったけど、さらちゃんの明るさをこのままなくさないように。こうしくんみたいに良いパートナーが見つかると良いね。わんぱくなお兄ちゃん達を宜しく。
成長すると、辛い事も悲しいことも増えるけど、楽しい事や嬉しい事も増えます。
皆が笑顔で成長してくれることオジサン願っています。
彼女へ
君と出会えて、人を好きになるということが初めて分かった気がします。一緒にいてくれて楽しかったし、充実していました。有難う。幸せにしてあげられず、ごめんなさい。僕の事は良い思い出として残して、誰か素敵な人を見つけてくれたら有り難いです。
地元の友人へ
マジでアホだった僕と仲良くしてくれて有難う。どこにいっても皆と笑い合えた日々が支えでした。特にたつみ、梅ちゃん、辰郎、林くんびっくりするくらい長い付き合いでしたね。君たちの頑張りが刺激だったし切磋琢磨出来てよかった。君たちの子どもに明るい未来が待っている事を願っています。夏祭りは、子どもたちの為に出来るだけ続けてくれ。ここに名前出せなかった人も同じくらい感謝してます。
大学の友人へ
自分の価値観を育む上で貴重な時間でした。遊んでくれて有難う。
りらへいつもNEWトピックを持ってくる君は大いなる刺激でした。幸せにな!子どもたちにも宜しく。
前世職の皆様
社会人としての基礎を学ばせて頂きました。直接はお返し出来ていないのですが、お二人の指導のお陰でバングラデシュに工場が建ち、関連産業含め数百人の雇用を生むことが出来たと思っています。有難うございました。
前職の皆様
本当に色々有りましたが、総括するとめちゃ楽しかったです。有難う。
特に今野さん、上田さんと働けた日々は学び多く、充実していました。お二人のお子さん達の明るい未来を祈っています。
現職の皆様
あまり細かく書くと引き継ぎみたいになるのですが笑、リタリコに入って、発達ナビをやれて本当に幸せです。僕みたいなよくわからない人間を採用して頂き、本当に有難うございました。最高の職場です。リタリコと皆様個人としてのキャリア、どちらも益々の活躍をお祈りします。
やばい、死んだわけでもないのに何故か書いてて泣きそうだ。
書ききれなかった皆様も、おかげさまですげえいい人生でした、楽しかったです。
悲しまないで、葬式にはこんな音楽でもかけて下さい。暗い!
DJ Krush - Candle Chant [A Tribute]
あと、カレーが好きなので、棺桶にはレトルトのカレーを入れて下さい。
Dear all my friends,
I decided to write a farewell note every new year as I noticed that deaths are always around me. It`s not about I wanna commit a suicide but about my preparation for death.
I became 30 last year. Year after Year, people around me passed away. Some had a enough time to thank their family and friends, but some who got an unexpected accident did not have any time to leave a comment.
I as a young healthy male, will probably die due to an unexpected accident.
If so, I will definitely regret that I do not leave any message to the people I love.
So, above is the reason behind of this farewell note.
To friends in Ireland,
I never got a chance to go abroad before I went to Ireland, so It was very new and tough experience to me. I learnt many things from the stay. I want to give special thanks to Shane and John. You guys made my life bright in Dublin. Big up and wish you all the best.
To frinds in Bangladesh and Nepal
I, from my heart, appreciate all Runner people, RTEV people, and Rahimafrooz people.
Thanks to you, we achieved a huge success in Business.
Special thanks to Hafizur, Corban, and Robin. It was great I worked with you and learnt many things from you. Wish your family the best.
I also have a big respect to Goenka family. Wish your family the brightest future.
To friends in all over the world,
One word. "Thanks"
I was very happy thanks to you guys!
Goodbyes are not really goodbyes, but just the beginning of a better life.
特攻隊員のモチベ
(*9ヶ月前のブログ記事が公開されずに残っていた。)
福岡に来たので、太刀洗飛行場跡を訪ねてみた。
戦中は東洋一の飛行場とも謳われた日本陸軍の航空基地があり、ここから沖縄沖等に多くの若者が飛び立って、戦死していった。
特攻のマニュアル。めちゃ雑に見えるんだが、万が一敵に捕まることも考えてシンプルにしてあるのかもしれない。
僕のお祖母ちゃんのお兄さん、所謂大叔父さんはこの場所から特攻に行って、死んだらしい。
見つけた。
「ただ心中にあるは敵艦必沈の闘志のみ、豊の満足この上なし。」
この大叔父さん、実は僕とほぼ一緒の場所に生まれて、同じ高校に通っている。
あんなド田舎に生まれ育った22歳の青年が、こんな風に考える至った背景が知りたかった。
現地で買ったこの本を読んでみる。
重爆特攻「さくら弾」機―日本陸軍の幻の航空作戦 (光人社NF文庫) | 林 えいだい |本 | 通販 | Amazon
この本によると、どうやら、大叔父さんがのせられたのは、さくら弾機というやつで、ドイツで開発された高性能爆弾を載せた、陸軍の秘密兵器のような位置付けだったらしい。
しかし、これが所謂不良品で、イワクつきの代物だったっぽい。
・作戦実行の前に、訓練中の事故で二機が墜落。乗組員死亡。(原因追及されず。)
・機体重量に対し、爆弾の重量が重すぎ、運動性能が著しく悪い(敵機に
見つかると逃げられない。)
・軽量化するために、機銃などの装備ゼロ。鉄の代わりにベニヤが貼ってある(反撃できない、弾が当たるとほぼ死ぬ)
・かといって、護衛の機体も付けてもらえない。
・作戦実行の前夜に、一機が放火され、作戦実行不可に。(元朝鮮籍の搭乗員がアリバイあるにも関わらず罪を被せられ処刑。)
この様に、機体は終わっているし、作戦自体の成功確率がほぼゼロと皆分かっている。
また、放火の話からも作戦自体への不満があった事が伺える。
放火された機体に乗る予定だった隊員はインタビューに対して、「特別攻撃に指名された時、何故私なんだ。私が先に死ななければならないのだ。と思った。」と答えている。
また、海軍で最初に特攻隊の隊長を務めた関行男大尉も、作戦前に以下の様に漏らしている。
「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。」
そりゃ無駄死になんてしたくはないよな。
米軍が大戦中に出していた内部向け報告書、それらを分析した本があり、そこに興味深い話が載っている。
日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書) | 一ノ瀬 俊也 |本 | 通販 | Amazon
・日本兵の靖国イデオロギー的な殉国意識は、教育レベルが高くなるにつれ弱くなる。
・降伏をしたり、捕虜になると皆殺しにされると信じている。
・上官の体罰を非常に恐れている。
・捕虜となるのは恥と思っており、そうなるともう自分の村では生きていけないと信じている。
・日本兵は給与が安く、仕送りも出来なかった。留守家族の生活は政府ではなく、「ムラ」近隣社会の手にゆだねられており、自分だけが生き残った場合、「ムラ」は家族への農作業援助を打ち切る可能性があり、これが投降を拒否した最大の理由の一つである。
ああ、なるほど。と思った。
僕の想像だけど、大叔父さん達は多分、クソみたいな機体、根性論で立てられたクソみたいな作戦に不満ぷんぷんだが、戦争に負けたら殺されると信じ込まされているし、上司には反抗出来ないし、恥さらしとして地元に帰るわけにもいかないし、残してきた自分の家族の生活を守るため、死地に向かったんじゃないだろうか。
あの手紙も、親に心配かけない為に、自分の死を納得させる為に書いたんじゃないだろうか。
あ、なんだか、これ、デジャブだ。
戦略がそもそも間違ってるのにクソみたいな商品やサービスを根性論で売らされて、上司に反抗出来ず、休職や、転職しちゃうと負け組みたいで周りに恥ずかしいし、自分の選択肢は無いと信じ込んじゃって、生活もあるしと、好きでもない職場で好きでもない同僚と働いて、ずるずるとメンタルを疲弊させていくみたいな。
海外の人と話していて過労死の話題になり、「なんで会社辞めないの?」と純粋に聞いてくる彼らにその背景を説明するのに苦労した事があるけど、この辺りは非常に説明しづらい。
恥や、ムラ(組織)の為に死ぬという日本人のメンタリティは、70年以上前からあまり変わっていないという仮説が立ったけど、ここらへん最近ホットトピックなのでもし詳しいかた居たら教えてください。
ジャブ
世界の広さ
地元に帰ってから、実家の近所を良く散歩している。
僕の実家がある才木村。Google に聞いても、地区名以外何も出てこない。都市部ならどれだけ小さい道でも網羅しているGoogle mapでさえ、めっちゃざっくりとした地図を出してくる。
ふと、歩きながら思い出したのだけど、小学校二年生まで、僕の世界はほぼ、この直径約1KMの範囲に限られていた。
地元の小学校の校則では、行動範囲を、学年毎に拡大していく仕組みになっていた。
確か2年生までが自分の村内、4年生までが自分の学区内、5年生になるとやっと城南町全域を移動出来ることになる。
僕らの住む才木村の中には自販機一つ無くて、どうしてもジュースとお菓子が買いたい僕らは、川向こうの地区にあるガソリンスタンドまで、保護者や村の皆に見つからないよう、細心の注意を払いながら移動していた。距離にすると一キロちょいなのだけれど、見つかると結構怒られるから。
9歳までの僕にとって、才木村の外は完全に外の世界だった。
それから歳をとるにつれて、僕の世界は物理的に広がっていった。
中学卒業と同時に自分の町から出て、高校卒業と同時に東京へ行き、ヨーロッパで学んで、東アフリカ、南アジアで働いた。
タンザニア時代。力を溜めたマサイは僕の5倍くらい飛ぶ。
お菓子がほしいがために自分の村を出た小学生の時みたいに、僕は物理的に移動し続けることで、自分の知識欲や好奇心を満たしてきた。
ベンチャー企業で働いて疑似起業体験を得ようとしたのも、自分の世界を広げたいからだったと思う。
しかし、最近になって、「若いのに色々経験してるね」とか言われる事に結構な違和感を感じるようになった。
海外に住んでいる時よりも、日本に帰ってきてからの方が驚きが多かったからだ。
最近接点が増えてきた発達障害を持つ人や、LGBTの人、友人や、友人の子供、自分の家族でさえ、話す頻度が増えると、今更ながら発見が多く、そのたびに人の多様性ってのを再認識させられる。
アフリカまで行って、「人間ってやっぱどこまで行っても一緒だなー」と考えていた自分が、日本に帰ってきてすぐ「人間ってやっぱ全然違うなー」となったのが少し可笑しい。
なんてことを考えていたら、長崎に行った際立ち寄った遠藤周作文学館で、思想家シュタイナーの言葉が紹介されていた。
「人間は青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが
、老年になると魂で世界を捕まえようとする。」
彼曰く、僕の青年期がどうやら黄昏を迎えているっぽい。
地元の黄昏は、高い建物が無いので笑えるほどキレイだ。同じ色の夕焼けはまだ見たことが無い。
ヴィパッサナー瞑想に参加して感じた事
http://www.jp.dhamma.org/?L=12
A.何故コースに参加しようと思ったのか?
1.集中力の向上が見込めそうだったから
2.仕事を二か月休んで暇なので、アクティビティを探していたから
3.うさん臭さが少なそう(変な思想とか押し付けられ無さそう)だったから
特に1は最近の自分にとって死活問題だった。
学生時代から、受験勉強に関しては折り紙付きの集中力の無さではあったが、本や映画に対する集中力は人よりあったし、一度世界に没頭すると、よほどの事が無い限り抜け出さなかった。
だけど、ここ数年は、何事にも集中出来なくなっている自分がいた。
本を読んでいる時、映画観ている時、人に会っている時、目の前のモノゴト、ヒトに集中出来ない自分がいた。別に急ぎの用も無いのにLineに返事が来ていないか気になったり、メールを見たり、人生のあらゆる局面でマルチタスクをしている自分がいて、そんな自分に嫌気がさしていたが、止められなかった。
10日間のこのコースは、携帯や本、筆記用具持ち込み、他者との会話さえ禁止されている。このコースに参加して、強制的にマルチタスクを止めようと思ったのだ。
B.コースの内容
「10日間、瞑想をし続ける」に尽きる。
ほぼ毎日、参加者は以下のスケジュールで行動する。人と話せず、何も持ち込めないので、瞑想をするか、寝るか、ご飯を食べているか、妄想するかの四択だ。
午前4時: | 起床 | |
午前4時30分~6時30分: | ホールまたは自分の部屋で瞑想 | |
午前6時30分~8時: | 朝食と休憩 | |
午前8時~9時: | ホールにてグループ瞑想 | |
午前9時~11時: | ホールまたは自分の部屋で瞑想 | |
午前11時~12時*: | 昼食 | |
午後12時~1時: | 休憩および指導者への質問 | |
午後1時~2時30分: | ホールまたは自分の部屋で瞑想 | |
午後2時30分~3時30分: | ホールにてグループ瞑想 | |
午後3時30分~5時: | ホールまたは自分の部屋で瞑想 | |
午後5時~6時: | ティータイム | |
午後6時~7時: | ホールにてグループ瞑想 | |
午後7時~8時15分: | 講話 | |
午後8時15分~9時: | ホールにてグループ瞑想 | |
午後9時~9時30分: | ホールにて質問 | |
午後9時30分: | 就寝 |