2019の振り返り-あきらめの1年-

明けましておめでとう御座います。

2020年が、皆様にとって素晴らしい一年になりますように。

 

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(菊池温泉の足湯に浸かりながら書いてます。)

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(「イノシシに襲わるっばい!」と親父に聞いたので友達とフリースタイルしながら登る。韻を踏むのに必死、所謂「韻に踏まれた」状態。)

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(見えたご来光)

 

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(新年早々大吉で最高)

 

忘れないうちに去年の振り返りを。

2019年、最終的には、とても良い一年だったなーと思う。

健康だったし、鎌倉に引っ越して、サウナにも沢山入れたし、ブラジリアン柔術、サーフィンも始めたし、支援員にもなれたし、何より社内外でも素敵な友人が沢山出来た(彼女は出来ない)。

いろんな人に迷惑を掛けながらも自分の仕事の自由度は増して、友人の会社を手伝って。

今までの人生、辛い辛い辛い、でも最後は楽しー!!的な、逆転ホームラン的な、快不快の割合が0.5:9.5くらいの人生だったけど、今年は4:6くらいの割合だったんじゃないだろうか。

この人良い人だなーとか、星や海って綺麗だなーとか、山気持ち良いなーとか、この虫かっこいいなーとか、毒魚に刺されると痛いとか、やっぱ吉野家美味いなとか、そんな些細なことに感謝することが出来た1年でした。

 

そんなこんなで年末に32歳になって、今まで自分の年齢と感覚が合うことが無かったのだけど、こう、やっとしっくりきた感じがする。

 

思い返すと、2019年の春-夏まではもやもやが大きかった。もう明らかにテンションが低かったので会社の方達には改めてゴメンと伝えたい。ゴメン!

2018年に思いっ切りマネジメントとして失敗したので、端的に言うと負荷が低く、自由度の高いところにスライドさせて頂いた。

しかし、負荷が低くなったらなったで、暇があると暇があるで色々考えてしまう。

(本当に会社の皆ごめん)

リタリコに入る直接のきっかけだった甥っ子もそこそこ見通しがついたし、兄とも仲直り?が出来た。あれ?俺次何したかったんだっけ?とか考えてしまった。

結果、自分史上最高のマンネリに襲われた。

「国内も海外もメーカーもITも福祉も大企業もベンチャーも社長も会社設立も新規事業もマネジャーも営業もマーケも物流もやってきた。人並みくらいには出来た。色んな人にも会った。なんとなくわかった。もう何をやっても刺激がねえ!」ってモードに入ってしまった。

今振り返るとわかるが、20代の頃は大体2年おきに仕事の内容や住む国を変えてきて、毎年毎年結構ハード目なチャレンジの連続だった僕は、仕事の中身やミッションを楽しむというよりも、「シゲキ。。。シゲキ。。」と新たなシゲキを求めて彷徨うシゲキアディクト(依存症)、際限の無いシゲキ亡者になっていたのだ。

「このままじゃやばい!」と人生初の夏休みを取り、ひたすら釣りとサーフィンと読書、たまにデートをしていたが全く心の隙間が埋まらない。

やべえ、環境を変えないと。と焦燥感に駆られるが特にやりたいことも見つからない。というループに陥ってしまった。

やべえやべえって思ってたら、11月後半になっていつの間にかその気持ちはスーッと消えて、自分は出来る事を淡々としようと、気持ちをシフトする事が出来た。

 

きっかけは色々あったんだけど、

試行錯誤している中で、良い意味で、自分や世の中、人をあきらめる事が出来たんじゃないかなと思う。(諦めるは仏教用語で明らめると書く。)

若い頃は野心が有ったり、強くなりたかったり、お金持ちになりたかったり、有名になりたかったり、モテたかったりした。

憧れの人も居たし、こうなりたい!が有って、こうあらねばならない、みたいな強迫観念を、自分にも周りにも持っていた。

 

それがここ最近、いつの間にか消失してしまった。

 

若輩者ながら、振れ幅の大きな、多様性のある出会いを沢山経験させて頂いた。

社会の階層や、国籍、思想や信条、ハンディ、背負っているもの。

様々なヒトに会い、様々なモノを見て、様々なコトを経た上で、自分も含めた人間の不完全さ、性、世の中の不条理さが、この歳になって、やっと腹落ちした感覚を得た。

 

とても今更だけど、やっとやっと、あんまり比較もしなくなって、過度な期待を他人にも自分にもしなくなった気がする。

結果、心が落ち着いて、幸せです。

 

長々書きましたが、こんな気持ちで新年を迎える事が出来るとは思っていなかったです。

関わって頂いている皆さま、本当に有難うございました。

出来ない事、無力感を感じる事も多いけれど、2020年も自分が出来る事をちゃんとやって行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-赦すこと、赦されること-アニとボクと、時々、オヤジ

先日、地元に出張に行ったついでに、兄貴とご飯を食べた。
家族なのだから別に大した話では無いのだけど、僕にとっては、約20年越しの大イベントだった。
 
「甥達を傷つける事があれば、絶対に兄ちゃんを許さない。」
二人で最後に会話したのは確か6年前、地元のファミレスでだった。
こんな言葉を伝えたように覚えている。
兄貴なりに仕事も頑張っていて、結婚して子供も3人いたが、傍目にはどうにも頼りなく見えたので、釘を刺すつもりで、あえて強い言葉を伝えた。
兄貴はいつものようにニコニコして、ただ頷いていたが結局その1年後、3人の子供を置いて、家出同然で27年間住んでいた家を出て行った。(理由は色々と込み入ってるので省略)
タンザニアから帰国したばかりの僕は、姉と、両親と、東京で家族会議を開いて、
兄貴を縁を切ること、甥と姪を最優先にケアすることを決め、その後は連絡先も知らず、どこで何をしているかも知らず、僕らはそれぞれ、大きな心のしこりを抱えながら、日常生活に戻ろうと努力した。
 
僕と兄の関係がいつから悪くなったのかははっきり覚えていない。
小学校の時は一緒に遊んでたし、兄に対して悪い感情を覚えていなかったように思う。
兄が中学校に入って、父親が兄を叱る場面が増えた。
今考えると本当に大した理由では無いのだけれど、性根がストイックな親父は本家の長男として相応しい男にどうしても育って欲しかったのだろう。
小さい頃から体も弱くて、勉強も得意じゃなかった兄は親父によく叱られていた。
それに反抗する様に兄の問題行動も増えた。
親の財布からお金を抜いたり、夜遊びばかりしたり、家に遊びに来る兄の友人はタバコを吸っていて、ガラも悪くて、小学生の僕からすると不道徳的だったし、そんな奴らと付き合ってる兄が気持ち悪かった。(今振り返ると可愛いもんなんだけど)
県内1の進学校に行った、出来の良かった最年長の姉と比較もしていた。
周囲もそうだった。
兄としては当時相当辛かったろうなと、振り返ると思う。
 
兄の進学先、就職先は父親が決めてきた。
本来気の弱い兄は、強権的な父親に最後まで抵抗が出来なかったのだと思う。
なんなら高校で入る部活さえ父親が指定した。
父親としては親心で、息子に出来るだけ苦労をさせたく無いと思っていたのだろうけど、兄にとっては人生で選択肢を与えられなかったと感じていたに違いない。
「俺は親父のレールを走ってきた。」家出する前、兄は電話でこう話していた。
 
高校、そして専門学校を卒後し、就職してからも兄は、サラ金から金を借りたり、いわゆるデート商法みたいなものに引っかかったり、事故って車を2台廃車(幸いけが人が居なかった)にするなど、トラブルは絶えなかった。
その度に父親と喧嘩していた。
高校生になった僕は、一層冷めた目で兄を見る様になった。
包み隠さず言うと、トラブルメーカーな兄が早く事故で死んで居なくなれば、僕の人生順調に行くのにな。なんて思っていた。
 
絶縁した兄と再びコミュニケーションを取ろうと思ったのは、今の会社に入ってからだ。と、言うよりも、今の会社に入ったきっかけが兄、そして発達障害のある甥の存在だった。
熊本地震バングラのテロが発生した2016年、僕は今までになく切羽詰まっていた。
地震は思いっきり地元だったし、テロは良く行ってたレストランで起こったし、亡くなった人とも面識はあった。
「どこでも、いつでも自分は死ぬ」、「死ぬ前に何をやりたいのか?後悔することはないか?」なんて真剣に考えていた。
そして、死ぬ前に絶対こんな仕事をやるのは嫌だなと率直に思ったので、前職を辞めることにした。
 
LITALICOへの転職活動中(担当の武藤君が話していた事は正直あまり覚えていないのだが笑)、その時に発達障害の話を聞きながら、兄の事や、僕の地元の友人達を思い出していた。
僕より勉強は出来たのに、問題行動を起こしてしまうやつ、人前で話せないやつ、時間通りに起きれないやつ、注意欠陥ですぐ忘れ物をしちゃうやつ(僕)、じっと机の上にいるとすぐ寝るやつ(僕)。
兄貴も彼らも、なんなら僕も、同じように自分の特性で苦しみ、悩んでいたのではないか。
今まで完全に彼らの性格のせいだと思っていたけど、適切な対処法を知っていたらもっと良い将来の選択肢があったんじゃないか。
自分が死ぬ前に後悔するとしたら、兄貴との関係なんじゃないか?
もう修復出来ないかもしれないけど、僕の甥や姪たちが、兄と僕と同じ状況になったとしたら、僕は一体人生で何を学んだのだろう。甥と姪にそんな思いをさせたくない。
 
そんな事を考えて、今の会社に入社した。
はや二年と半年、お陰様で、良い仲間、パートナーの皆様に恵まれ、甥も姪もすくすくと成長し、そこそこ幸せな日々を過ごしていたのだけれど、兄の事がずっと心に引っかかっていた。
「お兄さんに会って、ちゃんと会話をした方が良いよ。」 こんな事を言ってくださるお客様も何人かいらっしゃった。
その度に苦笑いをして、「家族だとそんな簡単じゃないんだよ」なんて内心思っていた。
 
甥が先日、うちの会社のサービスを利用した。僕が何をしたという訳では無いけど、
甥の成長に少しでも貢献出来て良かったなと思った。
そんな事を考えていたら、お盆の時期に兄がふらっと家に寄ったらしい。
甥の成長を見て少し安心したので、次は兄との関係を清算しようと考えた。
 
久々にあった兄の見た目は全然変わってなかった。
安い居酒屋に入るが、下戸なのでウーロン茶を飲みながらタバコを吸っている。
あれからもう一度大きな事故をしたらしく、目の上に目立つ傷ができていた。
一緒の家で生活していた以外に共通の話題を持たない僕らは、
ぎこちないながらも近況を話し合った。
自分は何の為に兄に会っているのか?を結局定めきれずに、
ただ、これだけは伝えておきたいと、つらつらと今の会社で働いている経緯を話した。
兄は、ひとしきり頷いた後、自分が成長過程において辛かった事(主に父親からのプレッシャー)について話す。僕も頷く。
「今は、代行の運転手をやっていて、そのうち独立したい、そして子供の養育費を払いたい。」と言う。
ここで僕の感情が動いたが、とりあえず頷く。
「独立するときは出資するよ。なんなら営業手伝ってやるから。」
「兄貴のプライドがあるけん、お前には金を借りたく無い」
そんな事を最後に話して、タバコを貰い、握手をして兄と別れた。
 
今の感情をなんと表現するのか、まだ言葉は見つかってないけれど、あれだけ憎んでいた兄と会って、率直に会話をした事はとても良かったし、良い瞬間だった。
"赦された”って感情が近いのかなと思うのだけれど、もう少し時間が立たないと整理出来ないのかもしれない。
 
兄と話していて、どうして兄弟でこんなに違う人生を歩んだんだろうと考えていた。
彼の方が僕より真面目で、優しくて、字も綺麗で、言語能力は低く無いし、多分同じくらいズボラだ。
色々な仮説はあるけれど、あまり原因究明するのは生産的では無いし、
今出来る事から、僕が可能な範囲で関わっていこうと思った。
 
また、兄の様に、障害云々関係なく、ちょっとしたボタンのかけ違いで自分の思い通りの人生を歩めない人は、日本だけで何百万人も、もしかしたら何千万人も居るかもしれない。
そんな状況にならないのがベストだけれど、再チャレンジ出来る仕組みや、それを許容する社会が素敵だし、作る努力をしていきたいと再認識したので、コツコツ頑張る。
 
*小学校高学年に差し掛かる僕の甥や姪が、この文章を読んだ時にどう思うかは分からないけど、僕は君達が過去の出来事や、周りの声に捉われず、自分の幸せの為に生きてくれる事を願ってるよ。
 
写真1:会う直前、地元で。珍しく虹が二本出ていた。
 

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写真2:兄と僕

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2018January-A letter of thanks

皆様(English below)

 

突然ですが私、23歳でタンザニアに行く前、26歳でバングラデシュに行く前には家族に遺書を書いていました。

今思うと滑稽というかビビり過ぎやろお前ってなるんですが、アフリカに行って死んだらもう会えないもんな-!と思って当時にしては珍しく真剣に書いていました。

去年私30歳になりまして。同世代の方は同感してもらえると思うのですが、この歳になると親世代は勿論、同世代でも亡くなる人がぽろぽろ出てくるもので、【死】というものが特別なものでは無いと感じるようになりました。

熊本地震バングラテロの時は【死】に対して猛烈にネガティブイメージがあったのですが、最近は「ああ、普通に皆死んでくんだな」とある程度受容できるようになったというか。自分が死ぬ時にこんな冷静に居られるかわかんないですが。

で、特に持病も無い僕が死ぬのはきっと事故の可能性が高くて、お世話になった皆さんに挨拶が出来る時間がある可能性はほぼ無いので、毎年新年に遺書(というか感謝状)を書いていこうと思い立ちました。僕がもし死んだら、ここを読んで酒のつまみにでもして下さい。

希死念慮とかはゼロなんで、あくまで突然死んだ場合です。Just in case

 

家族へ。

父さん、母さん、今まで育てて頂き有難うございました。二人に自由に育ててもらったお陰で、後悔もなく、とても楽しくて、有意義な人生でした。父さんのリベラルさや厳格さ、母さんの暖かさで今の僕が作られていると思います。本当に有難う。遺骨は実家の柿の木の下にでも埋めて下さい。毎年美味しい干し柿になって二人に恩返ししたいです。あんまり天国とか信じていないけれど、またどこかで会えたら良いね。運動を忘れずに、長生きして下さい。貯金あんまり無いけど、もし余ってたら甥と姪の学費に使って下さい。

姉ちゃん、一人で道を切り拓いてきた姉ちゃんのお陰で、広い世界を知ることが出来ました。生まれた時から可愛がってくれてありがとう。ゆみとまゆを宜しく。どうか幸せに生きて下さい。

兄ちゃん、最後までめっちゃ仲良くはなれなかったけど、兄ちゃんの感じていた辛さが今になって少し理解わかるようになりました。色々謝りたい事が多い。最近相談してくれるようになって有り難いです。身の回りに信頼出来る良い人を置いて、笑顔で生きて下さい。困ったら誰かに相談するんだよ。

 

姪と甥へ

ゆみ、君が生まれた時にこんこんは初めて誰かの為に死ねるな、と思いました。ゆみは気を使えるからストレスも溜まるかもしれないけど、自分の生きたい人生を歩んで下さい。あと、まゆをいじめずに、仲良くね。

まゆ、君が頭の中にある大きなアイディアを言葉に出来ずに悪戦苦闘しているのを見るのが、こんこん大好きでした。まゆの感性は凄く豊かなので、その感性を伸ばせる環境に自分を置いてください。ゆみと仲良くね。

陸、昔はすごくわんぱくだったけど、日々成長して行く君をみるのが楽しみです。君のお陰で素敵な仕事を見つけられました、ありがとう。人生で色々な困難があるかもしれないけど、君の個性を潰さず、認めてくれる人と一緒にいて下さい。

輝、こんなオジサンにすごい懐いてくれて有難う。輝はとても才能豊かだと思う。色々な世界を知って、後悔の無い人生、もしくは後悔も楽しめる人生を歩んでください。

英語の勉強はやめるなよ。ママにも優しくね。

さら、あんまり一緒にいてあげられなかったけど、さらちゃんの明るさをこのままなくさないように。こうしくんみたいに良いパートナーが見つかると良いね。わんぱくなお兄ちゃん達を宜しく。

成長すると、辛い事も悲しいことも増えるけど、楽しい事や嬉しい事も増えます。

皆が笑顔で成長してくれることオジサン願っています。

 

彼女へ

君と出会えて、人を好きになるということが初めて分かった気がします。一緒にいてくれて楽しかったし、充実していました。有難う。幸せにしてあげられず、ごめんなさい。僕の事は良い思い出として残して、誰か素敵な人を見つけてくれたら有り難いです。

 

地元の友人へ

マジでアホだった僕と仲良くしてくれて有難う。どこにいっても皆と笑い合えた日々が支えでした。特にたつみ、梅ちゃん、辰郎、林くんびっくりするくらい長い付き合いでしたね。君たちの頑張りが刺激だったし切磋琢磨出来てよかった。君たちの子どもに明るい未来が待っている事を願っています。夏祭りは、子どもたちの為に出来るだけ続けてくれ。ここに名前出せなかった人も同じくらい感謝してます。

 

大学の友人へ

自分の価値観を育む上で貴重な時間でした。遊んでくれて有難う。

りらへいつもNEWトピックを持ってくる君は大いなる刺激でした。幸せにな!子どもたちにも宜しく。

 

前世職の皆様

社会人としての基礎を学ばせて頂きました。直接はお返し出来ていないのですが、お二人の指導のお陰でバングラデシュに工場が建ち、関連産業含め数百人の雇用を生むことが出来たと思っています。有難うございました。

 

前職の皆様

本当に色々有りましたが、総括するとめちゃ楽しかったです。有難う。

特に今野さん、上田さんと働けた日々は学び多く、充実していました。お二人のお子さん達の明るい未来を祈っています。

 

現職の皆様

あまり細かく書くと引き継ぎみたいになるのですが笑、リタリコに入って、発達ナビをやれて本当に幸せです。僕みたいなよくわからない人間を採用して頂き、本当に有難うございました。最高の職場です。リタリコと皆様個人としてのキャリア、どちらも益々の活躍をお祈りします。

 

やばい、死んだわけでもないのに何故か書いてて泣きそうだ。

書ききれなかった皆様も、おかげさまですげえいい人生でした、楽しかったです。

悲しまないで、葬式にはこんな音楽でもかけて下さい。暗い!


DJ Krush - Candle Chant [A Tribute]

あと、カレーが好きなので、棺桶にはレトルトのカレーを入れて下さい。

 

Dear all my friends,

I decided to write a farewell note every new year as I noticed that deaths are always around me. It`s not about I wanna commit a suicide but about my preparation for death. 

I became 30 last year. Year after Year, people around me passed away. Some had a enough time to thank their family and friends, but some who got an unexpected accident did not have any time to leave a comment. 

I as a young healthy male, will probably die due to an unexpected accident. 

If so, I will definitely regret that I do not leave any message to the people I love.

So, above is the reason behind of this farewell note.

 

To friends in Ireland,

I never got a chance to go abroad before I went to Ireland, so It was very new and tough experience to me. I learnt many things from the stay. I want to give special thanks to Shane and John. You guys made my life bright in Dublin. Big up and wish you all the best.

 

To frinds in Bangladesh and Nepal

I, from my heart, appreciate all Runner people,  RTEV people, and Rahimafrooz people.

Thanks to you, we achieved a huge success in Business.

Special thanks to Hafizur, Corban, and Robin. It was great I worked with you and learnt many things from you. Wish your family the best.

I also have a big respect to Goenka family. Wish your family the brightest future.

 

To friends in all over the world,

One word. "Thanks"

I was very happy thanks to you guys! 

Goodbyes are not really goodbyes, but just the beginning of a better life.

 

 

 

 

 

 

 

特攻隊員のモチベ

(*9ヶ月前のブログ記事が公開されずに残っていた。)

 

福岡に来たので、太刀洗飛行場跡を訪ねてみた。

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戦中は東洋一の飛行場とも謳われた日本陸軍の航空基地があり、ここから沖縄沖等に多くの若者が飛び立って、戦死していった。

 

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特攻のマニュアル。めちゃ雑に見えるんだが、万が一敵に捕まることも考えてシンプルにしてあるのかもしれない。

僕のお祖母ちゃんのお兄さん、所謂大叔父さんはこの場所から特攻に行って、死んだらしい。

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見つけた。 

「ただ心中にあるは敵艦必沈の闘志のみ、豊の満足この上なし。」

この大叔父さん、実は僕とほぼ一緒の場所に生まれて、同じ高校に通っている。

あんなド田舎に生まれ育った22歳の青年が、こんな風に考える至った背景が知りたかった。

現地で買ったこの本を読んでみる。

重爆特攻「さくら弾」機―日本陸軍の幻の航空作戦 (光人社NF文庫) | 林 えいだい |本 | 通販 | Amazon

 

この本によると、どうやら、大叔父さんがのせられたのは、さくら弾機というやつで、ドイツで開発された高性能爆弾を載せた、陸軍の秘密兵器のような位置付けだったらしい。

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しかし、これが所謂不良品で、イワクつきの代物だったっぽい。

・作戦実行の前に、訓練中の事故で二機が墜落。乗組員死亡。(原因追及されず。)

・機体重量に対し、爆弾の重量が重すぎ、運動性能が著しく悪い(敵機に

見つかると逃げられない。)

・軽量化するために、機銃などの装備ゼロ。鉄の代わりにベニヤが貼ってある(反撃できない、弾が当たるとほぼ死ぬ)

・かといって、護衛の機体も付けてもらえない。

・作戦実行の前夜に、一機が放火され、作戦実行不可に。(元朝鮮籍の搭乗員がアリバイあるにも関わらず罪を被せられ処刑。)

 

この様に、機体は終わっているし、作戦自体の成功確率がほぼゼロと皆分かっている。

また、放火の話からも作戦自体への不満があった事が伺える。

放火された機体に乗る予定だった隊員はインタビューに対して、特別攻撃に指名された時、何故私なんだ。私が先に死ななければならないのだ。と思った。」と答えている。

また、海軍で最初に特攻隊の隊長を務めた関行男大尉も、作戦前に以下の様に漏らしている。

「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。」

 

そりゃ無駄死になんてしたくはないよな。

米軍が大戦中に出していた内部向け報告書、それらを分析した本があり、そこに興味深い話が載っている。

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書) | 一ノ瀬 俊也 |本 | 通販 | Amazon

日本兵靖国イデオロギー的な殉国意識は、教育レベルが高くなるにつれ弱くなる。

・降伏をしたり、捕虜になると皆殺しにされると信じている。

・上官の体罰を非常に恐れている。

・捕虜となるのは恥と思っており、そうなるともう自分の村では生きていけないと信じている。

日本兵は給与が安く、仕送りも出来なかった。留守家族の生活は政府ではなく、「ムラ」近隣社会の手にゆだねられており、自分だけが生き残った場合、「ムラ」は家族への農作業援助を打ち切る可能性があり、これが投降を拒否した最大の理由の一つである。

ああ、なるほど。と思った。

 

僕の想像だけど、大叔父さん達は多分、クソみたいな機体、根性論で立てられたクソみたいな作戦に不満ぷんぷんだが、戦争に負けたら殺されると信じ込まされているし、上司には反抗出来ないし、恥さらしとして地元に帰るわけにもいかないし、残してきた自分の家族の生活を守るため、死地に向かったんじゃないだろうか。

あの手紙も、親に心配かけない為に、自分の死を納得させる為に書いたんじゃないだろうか。

 

あ、なんだか、これ、デジャブだ。

 

戦略がそもそも間違ってるのにクソみたいな商品やサービスを根性論で売らされて、上司に反抗出来ず、休職や、転職しちゃうと負け組みたいで周りに恥ずかしいし、自分の選択肢は無いと信じ込んじゃって、生活もあるしと、好きでもない職場で好きでもない同僚と働いて、ずるずるとメンタルを疲弊させていくみたいな。

 

海外の人と話していて過労死の話題になり、「なんで会社辞めないの?」と純粋に聞いてくる彼らにその背景を説明するのに苦労した事があるけど、この辺りは非常に説明しづらい。

 

恥や、ムラ(組織)の為に死ぬという日本人のメンタリティは、70年以上前からあまり変わっていないという仮説が立ったけど、ここらへん最近ホットトピックなのでもし詳しいかた居たら教えてください。

 

 

 

 

ジャブ

他人からすると本当にどうでも良い事なのだけれど、昨夜、やっと、左ストレートが打てるようになった。
18歳で実戦をしなくなって、ボクシングが好きだけど上を目指す気も無く、趣味でやっていたのだが、どうしてもモチベがあがらない。
ならば、サウスポーに構えを変えてみようと二年前くらいからやり始めたのだけど、これが全くしっくりこない。
スポーツやった事ある人なら分かると思うのだけど、フォームの微修正だけでも結構大変じゃないですか。
逆構えでやるのって結構難しい。
 
で、だらだらとトレーニングだけしてたのだけれど、何故か昨日の晩、いきなり左ストレートがドンピシャのタイミングと威力で打てる様になった。
それまで全くのゼロ成長で、いきなりの変化に戸惑ったのだけれど、三十路を前にして、自分がまだ成長出来ると知れたのが純粋に嬉しかった。
 
最近転職して、周りは”半端なく”優秀だし、会社に対しても社会に対しても、自分が何も貢献出来なくて凹んでいる。
異業種だし、まあ凹むだろうなと思ってはいたけど、想定の五倍くらい凹んでいる。
 
そういえば、日本ランカーの人と最初に試合した時ってこんな気持ちだったなと思い出した。
そこそこ自信があって、「こいつに勝って名を上げる」とか思っていたのに、どう手を出しても、どこにどう動いても打たれる。
たまに当たったと思っても5倍は打たれて、文字通りボコられた。
その日は泣きじゃくって放心状態だったけれど、次の日から、基礎中の基礎であるジャブの練習を始めた。
 
色々偉そうなこと言ってきたし、もう29歳だけど、今回もジャブから練習しよう。

世界の広さ

地元に帰ってから、実家の近所を良く散歩している。

 

僕の実家がある才木村。Google に聞いても、地区名以外何も出てこない。都市部ならどれだけ小さい道でも網羅しているGoogle mapでさえ、めっちゃざっくりとした地図を出してくる。

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ふと、歩きながら思い出したのだけど、小学校二年生まで、僕の世界はほぼ、この直径約1KMの範囲に限られていた。

地元の小学校の校則では、行動範囲を、学年毎に拡大していく仕組みになっていた。

確か2年生までが自分の村内、4年生までが自分の学区内、5年生になるとやっと城南町全域を移動出来ることになる。

僕らの住む才木村の中には自販機一つ無くて、どうしてもジュースとお菓子が買いたい僕らは、川向こうの地区にあるガソリンスタンドまで、保護者や村の皆に見つからないよう、細心の注意を払いながら移動していた。距離にすると一キロちょいなのだけれど、見つかると結構怒られるから。

9歳までの僕にとって、才木村の外は完全に外の世界だった。

 

それから歳をとるにつれて、僕の世界は物理的に広がっていった。

中学卒業と同時に自分の町から出て、高校卒業と同時に東京へ行き、ヨーロッパで学んで、東アフリカ、南アジアで働いた。

 

タンザニア時代。力を溜めたマサイは僕の5倍くらい飛ぶ。

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お菓子がほしいがために自分の村を出た小学生の時みたいに、僕は物理的に移動し続けることで、自分の知識欲や好奇心を満たしてきた。

ベンチャー企業で働いて疑似起業体験を得ようとしたのも、自分の世界を広げたいからだったと思う。

しかし、最近になって、「若いのに色々経験してるね」とか言われる事に結構な違和感を感じるようになった。

海外に住んでいる時よりも、日本に帰ってきてからの方が驚きが多かったからだ。

最近接点が増えてきた発達障害を持つ人や、LGBTの人、友人や、友人の子供、自分の家族でさえ、話す頻度が増えると、今更ながら発見が多く、そのたびに人の多様性ってのを再認識させられる。

アフリカまで行って、「人間ってやっぱどこまで行っても一緒だなー」と考えていた自分が、日本に帰ってきてすぐ「人間ってやっぱ全然違うなー」となったのが少し可笑しい。

 

なんてことを考えていたら、長崎に行った際立ち寄った遠藤周作文学館で、思想家シュタイナーの言葉が紹介されていた。

「人間は青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが

、老年になると魂で世界を捕まえようとする。」

彼曰く、僕の青年期がどうやら黄昏を迎えているっぽい。

 

 

 地元の黄昏は、高い建物が無いので笑えるほどキレイだ。同じ色の夕焼けはまだ見たことが無い。

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ヴィパッサナー瞑想に参加して感じた事

昨年暮れ、12月28日から1月8日まで、ヴィパッサナー瞑想のコースに参加してきた。

http://www.jp.dhamma.org/?L=12

 

A.何故コースに参加しようと思ったのか?

1.集中力の向上が見込めそうだったから

2.仕事を二か月休んで暇なので、アクティビティを探していたから

3.うさん臭さが少なそう(変な思想とか押し付けられ無さそう)だったから

特に1は最近の自分にとって死活問題だった。

学生時代から、受験勉強に関しては折り紙付きの集中力の無さではあったが、本や映画に対する集中力は人よりあったし、一度世界に没頭すると、よほどの事が無い限り抜け出さなかった。

だけど、ここ数年は、何事にも集中出来なくなっている自分がいた。

本を読んでいる時、映画観ている時、人に会っている時、目の前のモノゴト、ヒトに集中出来ない自分がいた。別に急ぎの用も無いのにLineに返事が来ていないか気になったり、メールを見たり、人生のあらゆる局面でマルチタスクをしている自分がいて、そんな自分に嫌気がさしていたが、止められなかった。

10日間のこのコースは、携帯や本、筆記用具持ち込み、他者との会話さえ禁止されている。このコースに参加して、強制的にマルチタスクを止めようと思ったのだ。

 

B.コースの内容

「10日間、瞑想をし続ける」に尽きる。

ほぼ毎日、参加者は以下のスケジュールで行動する。人と話せず、何も持ち込めないので、瞑想をするか、寝るか、ご飯を食べているか、妄想するかの四択だ。

午前4時:      起床
午前4時30分~6時30分:   ホールまたは自分の部屋で瞑想
午前6時30分~8時:   朝食と休憩
午前8時~9時:   ホールにてグループ瞑想
午前9時~11時:   ホールまたは自分の部屋で瞑想
午前11時~12時*:   昼食
午後12時~1時:   休憩および指導者への質問
午後1時~2時30分:   ホールまたは自分の部屋で瞑想
午後2時30分~3時30分:   ホールにてグループ瞑想
午後3時30分~5時:   ホールまたは自分の部屋で瞑想
午後5時~6時:   ティータイム
午後6時~7時:   ホールにてグループ瞑想
午後7時~8時15分:   講話
午後8時15分~9時:   ホールにてグループ瞑想
午後9時~9時30分:   ホールにて質問
午後9時30分:   就寝
 
C.僕が参加した際の流れ
日記もつけていなかったのでうろ覚えで、間違っているかもしれないが、僕が参加した時は以下の様に進んだ。
 
Day1
夕方に千葉県の茂原駅に到着する。バスまでは少し時間があるので、近くのロッテリアで時間を潰す。コース中は一日2食で、しかもかなりの粗食と聞いたので、最後の晩餐にハンバーガーを食べた。参加者はヒッピーが多いのかとイメージしていたが、想像以上に、なんというか、社会のマジョリティ側にいるんだろうなーと感じる人が多い。バスの時間になり乗り込むが、参加者がスーツケースを運び込み、しかも30人くらい乗ってくるので、普段ガラガラであろうローカルバスはぎゅうぎゅう詰めで超満員。高齢の乗客は驚いていたが、彼らから見ると田舎に多種多様な多くの男女がいきなり集まって、しかもお互いに一言も喋らないのでかなり異様に見えるだろう。目的地周辺まで行き、それからボランティアのピストン輸送で目的地に着く。
到着し、プレハブの、30人分のベッドがぎっしりと並べられている共同部屋で荷物をほどいた後、食堂で明日以降何をするかのブリーフィングが行われた。
参加者は男女合わせて80名くらいだろうか。そして、有志のボランティア(瞑想しながら、参加者の食事や掃除などの世話をする)が十人くらい。海外からの参加者も10%程度いた。
べジのカレーが夕食で出たが、これはかなり美味しくて、翌日以降に希望が持てた。
 
 
Day2
朝四時に鐘が鳴らされ、起床。六時半までは自分のベッドの上で瞑想をしなければならないのだが、やり方も分からないので寝ていたら、見回りの人が来て起こされた。
その後朝食。味噌汁と、ごはんと、浅漬け、パン、調味料、リンゴ半切れが並べられている。The 粗食というメニュー。ほぼ毎日朝ごはんのメニューは変わらなかった。朝早いし、あまり食欲もわかないが、一日2食しか食べれないので、大事に食べる。
その後ホールでグループ瞑想、ここで瞑想方法の説明をしてくれる。
説明はシンプルで、鼻から出る息に、ただ集中。それ以外の雑念が色々出てくるが、雑念に気付いたら息への集中に戻す。この日はこれをずっとやる。
瞑想というものを初めて体験したが、自分の意識がこれほどまでに忙しいという事に驚愕した。十秒も息に集中出来ない。昨日見た映画や会った人間、漫画。取り留めも無く色々な絵や言葉が脳裏に浮かんできて、意識の集中を妨げる。
夜になって空を見上げたが、満点の星空だった。2016年は二回星を見に行ってどちらも天候不良で星が見れなかったのだけど、茂原は毎日星が見えた。今度から星を見るデートの時は、茂原に来ようと妄想したりした。
 
Day3
引き続き、昨日と同じ瞑想方法をやる。びっくりするほど、全くと言って集中出来ない。雑念の割合は九割人間関係だ。
そしてその九割が男女関係で、そんな自分にあきれていた。
あと、KOHHの別に好きでもない「Tatto入れたい」が頭の中でリフレインしている。
 
お昼ご飯の時、前に並んでいたアメリカ人が「oops」と小さく呟いて、僕の顔を見てきた。ボディランゲージや目線も含めて、コミュニケーションは全て禁止なので無視した。
炊飯器の前に行くと、彼の気持ちが理解出来た。ごはんが無いのだ。
並ぶ順番は確かに後ろの方ではあったが、まさか貴重なカロリー源であるごはんが足りなくなるとは。しかし、コミュニケーションが禁止なので、何の主張も出来ない。
奉仕者の方が気づいて後で追加され、少量食べられたが、この日を境に皆フライング気味に食堂に並ぶことになった。
 
Day4
瞑想のやり方に少し変更があった。今までは息だけに集中していたが、この日から上唇両端から鼻の上を結ぶ三角形に集中しろという事に。
そうすると、不思議な感覚が起こった。眉間の少し上が凄くもやもや、ぞわぞわしてきたのだ。この場所は所謂「第三の目」なのでテンションがあがる。
うわ、めっちゃ才能あるやん俺!と思って相談時間に先生に相談してみたら、「あ、それ今集中している場所の範囲外だから無視して。」と言われてシュンとなってしまった。
このインド人の先生、把握している限り英語、日本語、中国語を操る事が出来て、すごく現実主義で面白い人だった。
ある時、僕の前に座る人が先生に「瞑想している自分を見ている自分がいる」なんて相談したら「それ妄想だから呼吸に集中して。」とバッサリ切られていた。
彼のそういった姿勢から、原始仏教とは一切の神秘主義を排した、現実的で実践的なモノだという事を理解した。
 
Day5
瞑想に完全に飽きてしまった。帰りたい気持ちが凄い。実際、周りを見渡すと数人が減る。脱落者も出るというのはこういう事か。
夜の講話パートは、二時間座って、ブッダのエピソードを聞く。パワポにしたら五枚くらいで収まりそうな話を二時間に延ばすので、たとえ話もやたら多く、正直苦痛でしかなかった。時間を無駄に使うのは非合理だし、原始仏教っぽくないなと思っていたのだが、学の無い人にも分かりやすく説明するという事なのだろう。
雑念は引き続き消えないが、インプットがほぼ無いせいか、内容が記憶の深層へシフトしてきた。今まで一度も思い出さなかった人生のイベントがぽろぽろと脳裏に浮かんでは、頑張って意識を集中させる。
 
Day6
寝てるか妄想しているか瞑想しているかなので、このあたりから一日一食で良くなってきた。
朝ごはんを抜き出す。
瞑想も新しいステージに入り、頭のてっぺんからつま先まで、全身の皮膚感覚に神経を研ぎ澄ませ、一か所一か所点検していく。これが最後まで、非常に難しかった。
雑念は、記憶がいい加減出尽くしたのか、完全妄想モード。
 
 
Day7
もう、最高に飽きる。瞑想に最高に飽きた。帰りたい気持ちのピークだ。
ここで一割くらいの参加者が既に消えていた。僕も帰りたい。
ただ、お昼の瞑想中、自分史上最凶最悪の妄想に囚われる。
人に恨みを持ったことは数えきれないほどあったが、妄想であっても、自分がこれだけ邪悪な妄想を出来る事に驚愕した。仕事や、男女関係、怒り側のネガティブ妄想がどんどん増殖していく。
 
 
Day8
この日も引き続き怒りの感情が強い。先生が、瞑想をしていくと、浄化過程で、だんだん自分の負の感情が表に出てくると言っていたが、この事なのか。
後ろのインド人が突然泣き出して少し驚いた。
夜中にオジサンが「頑張って作ったんですからぁ」等と寝言を叫びだした。
ずっと座ってるか寝てるので、だんだん現実、妄想、夢の境界が曖昧になってくる。
 
 
Day9
妄想中に何故かふと、本当にふと、自分とは何かを考えた。
自分とは、縁や因果の結果で、かつ過程であるのだろうと。
ならば、関わってきた人がすべてが自分を作り出す要素なのではないか?
自分は個としては成立出来ず、他者との関係性の中にしか、自分というものは存在しないのならば、他者を含めた人間関係の輪が自分なのでは無いのかみたいなことをぐるぐると考えていた。
 
Day10
最終日。昨日の妄想の続きが、なんか胡散臭く聞こえるとあれなんですが、こう、感謝としか呼べないような感情につながる。
怒りの対象だった人に対して、彼らとの縁も今の自分という現象を作りだしていて、彼らの色々な行為に反応してきた結果が今の僕なんだなと。
親の欲情から生まれて、愛情、友情、怒り、嫉妬、色々なものに反応しながら自分というモノが変化していく。
この日の終わりには、怒りの感情はいつの間にか消えていて、自分の一部でもある彼らの幸せを願うという、不思議な体験だった。
 
Day11
この日の朝から会話が解禁される。色々な人に話してみる。瞑想の事や、日々の生活の事。サラリーマン、自営業、ヒッピーぽい人、工場で働く人など、ここへ来るきっかけも感じていることも多種多様で楽しい。ただ、皆雑念は最終日までやはり出てくること、男の人は結構な割合で女性の事を考えている事が多いという事も判明し、自分だけじゃないのだと安心した。
 
 
Day12
朝から掃除をして、コース終了。それぞれ岐路につく
 
 
D.その後の変化など
 
1.仏教、瞑想への理解が深まった。
これは僕の今の理解だが、簡単に説明すると、ブッダの説いた事は信仰などでは無く、以下だと思う。
「事実→反応→感情という流れが人間を不幸にしている。瞑想という精神集中を行い、反応→感情の流れを断ち切り、事実のみを見るようにすれば、不幸にはならない。」
事実に対して、人間は様々な反応をする。
例えば、ある日、雪が降ったとする。雪が降ったことはただの事象で、現実だが、人によってそれは色々な感情を引き起こす。「靴が濡れて不快」だの「寒くて嫌」だの、雪にまつわる様々な記憶を思い出したりだろう。もちろん、楽しい思い出もある。それは、事実でなく、全て自分の頭の中で起こっている妄想である。
事実に対して、妄想の余地を無くす。その為に精神集中をする。そうする事で、人は楽に生きられる様になる。
ただ、もう一つ気づいたのは、瞑想というのは訓練なので、上記の境地に至るまでの道のりははるか長いという事。
開脚したいならストレッチを毎日続けるのと一緒で、これは毎日やらないと意味が無いです。別に参加したから悟りがひらけるわけでは全くなく、日々瞑想して、事実と反応を切り分ける訓練を続けていかないと、すぐ反応しやすい状態に逆戻りしてしまう。
日々の生活が楽にならないと全く実践的では無いであるが、毎日の瞑想、これは東京生活でかなりハードルが高い。
 
2.マルチタスクは減った
実際減りました。携帯触る時間も減った。というか、欲望の総量が減った気がする。
 
3.怒りが減った
これは、仕事しだすと戻りそうなので気を付ける。
 
4.ご飯が美味しく感じる
味わって食べるようになる。
 
5.体重は減らなかった
 10日間、べジ食で一日2食、もしくは1食だったのに、体重は減らなかった。
逆に言うと、別に三食食べなくてもあんまり支障ないという事だろう。
 
E.結論
しんどかったけど、また機会があれば参加したいと思った。
あれほど、自分だけと対話できる時間を取るのは東京生活では難しかったし、自分の脳みそが想像以上に騒がしいという気づきも面白かった。悟りとは言わないが、瞑想から得られる効用も、十分実用的だなと感じた。
10日間という長い期間だけど、もし行けるなら、僕の友人達には是非進めたい。
もし行ったら、感想を教えてください。