世界の広さ
地元に帰ってから、実家の近所を良く散歩している。
僕の実家がある才木村。Google に聞いても、地区名以外何も出てこない。都市部ならどれだけ小さい道でも網羅しているGoogle mapでさえ、めっちゃざっくりとした地図を出してくる。
ふと、歩きながら思い出したのだけど、小学校二年生まで、僕の世界はほぼ、この直径約1KMの範囲に限られていた。
地元の小学校の校則では、行動範囲を、学年毎に拡大していく仕組みになっていた。
確か2年生までが自分の村内、4年生までが自分の学区内、5年生になるとやっと城南町全域を移動出来ることになる。
僕らの住む才木村の中には自販機一つ無くて、どうしてもジュースとお菓子が買いたい僕らは、川向こうの地区にあるガソリンスタンドまで、保護者や村の皆に見つからないよう、細心の注意を払いながら移動していた。距離にすると一キロちょいなのだけれど、見つかると結構怒られるから。
9歳までの僕にとって、才木村の外は完全に外の世界だった。
それから歳をとるにつれて、僕の世界は物理的に広がっていった。
中学卒業と同時に自分の町から出て、高校卒業と同時に東京へ行き、ヨーロッパで学んで、東アフリカ、南アジアで働いた。
タンザニア時代。力を溜めたマサイは僕の5倍くらい飛ぶ。
お菓子がほしいがために自分の村を出た小学生の時みたいに、僕は物理的に移動し続けることで、自分の知識欲や好奇心を満たしてきた。
ベンチャー企業で働いて疑似起業体験を得ようとしたのも、自分の世界を広げたいからだったと思う。
しかし、最近になって、「若いのに色々経験してるね」とか言われる事に結構な違和感を感じるようになった。
海外に住んでいる時よりも、日本に帰ってきてからの方が驚きが多かったからだ。
最近接点が増えてきた発達障害を持つ人や、LGBTの人、友人や、友人の子供、自分の家族でさえ、話す頻度が増えると、今更ながら発見が多く、そのたびに人の多様性ってのを再認識させられる。
アフリカまで行って、「人間ってやっぱどこまで行っても一緒だなー」と考えていた自分が、日本に帰ってきてすぐ「人間ってやっぱ全然違うなー」となったのが少し可笑しい。
なんてことを考えていたら、長崎に行った際立ち寄った遠藤周作文学館で、思想家シュタイナーの言葉が紹介されていた。
「人間は青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが
、老年になると魂で世界を捕まえようとする。」
彼曰く、僕の青年期がどうやら黄昏を迎えているっぽい。
地元の黄昏は、高い建物が無いので笑えるほどキレイだ。同じ色の夕焼けはまだ見たことが無い。